飛び出せ!ミステリ小僧 | |
…どこ飛び出すねん? 何の事はない、ここは管理人の雑記帳です。 ミステリに関する事もそうでない事も、思いつくまま不定期に書き殴るしょうもないコラムページです。今後どうなっていくのか見当も付きませんが、「閉鎖勧告メール」が山のように届かない限り、当分続けてみようと思っています。 それでは、開発日誌第4回です。 |
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開発日誌第4回 たんていくんのルーツ | |
皆さんこんにちは。 たんていくんは、AVG形式が多い従来の推理ゲームとはずいぶん違った奇天烈なスタイルをしています。良くも悪くも個性的なこの形式は、一体どのようにして生まれたのでしょうか? 今回は、これをお話ししようと思います。(昔話) ※いくつか参考になったミステリを挙げていますが、極力ネタバレにならないよう抽象的な言い回しを採っています。(未読の人は訳が解らないかも…汗) ※作家名は敬称略とさせて頂きました。 たんていくんについて、外見が似ている事から、大昔のPCエンジン(知ってますか?)用ソフト「シャーロック・ホームズの探偵講座」が原型か?と仰る方が結構多いのですが、実は、私がヒントを得たのは法月綸太郎の「頼子のために」と、ハリイ・ケメルマンの「9マイルは遠すぎる」なんですね。意外でしょうか? 「ホームズの…」は、私もかつてプレイした事があります。その時に感じたのは、「あまり能動的なゲームではなく、むしろ物語を追って行く(徐々に真相に迫って行く)楽しさを重視している」という事です。たんていくんが「マップ上のどこにでも行ける」という事に執拗に拘るのは、特定の物語をプレイヤーに与えない事で、自由な推理が可能になるのではないかと思うからです。「ホームズの…」の方は、新聞等の小道具を主に「ミステリ(小説)をよりリアルに感じさせ、物語の面白さを増幅させる」目的に使っています。たんていくんとは、本質的に正反対だと言っていいのではないでしょうか。 この両者の考え方の違いは、残念ながら現状のたんていくんのマップ規模では、なかなか理解してもらえないかもしれません。製作の労力を無視して言うと、私達は人口1万人位が理想だと思っています。今の1千人程度の町では、「考えるより、とりあえず適当に動いてみるか」と思われる可能性も低くなく、まだまだたんていくん本来の持ち味は表現しきれていません。 …そんな訳で、「ホームズの…」の事は、私の記憶からほとんど消えていました。ただ、漠然と「自発的に捜査出来、自由に推理出来る、そんなミステリはないのだろうか」という気持ちは、この頃から残ったような気はします。 後年、海外ミステリはクイーンとカーしか読まない(呆)私に、友人が勧めてくれたのが「9マイルは遠すぎる」でした。それも、「これは厳密には本格とは言えないかもしれないけど、でも面白いよ」という微妙な言い回しで…。 この作品は本格推理通を気取っていた私に、大きな衝撃をもたらしました。私は本格ミステリに対し、クイーン流のスタイル、つまり推理に必要な全データを読者に開示し、その上で解いてみよと挑戦するのが唯一無二の形であると思っていました。(「読者への挑戦」の有無を指しているのではありません)ここから外れたミステリは本格ではないと考えていたのです。 ところが、ケメルマンはまるで(当人にはそんな気は全くないでしょうが)そんな私をあざ笑うかのように、芸術的な推理を披露します。先の友人が「本格とは言えないかも」と言った理由もよく解りました。推理を行う主人公の台詞の中で、それまでどこにも記述されていなかったデータが次々に登場して来るのです。 正直言うと、最初に読み終えた時には、「もし本格として評価するなら、この作品はアンフェアだ」と感じました。主人公の推理と共に前記のような新データが続出するのですから、これでは序盤で読者が自発的に推理する事は出来ません。せっかく仮説を立てても、「実は、この付近の地理は…」というような「後出しデータ」で否定されてしまいます。 その頃の私は、本格ミステリ読みとして「自分は知的水準高いぞ!」という錯覚を持っていたのですね。先述のクイーン型のミステリは、あくまで「小説の中で推理を楽しませるなら、こういうやり方が一番良い」という事なのであって、決して「推理小説イコール推理」とは限らないという事に、私は初めて気付いたのです。 私にとって一番面白い「推理小説」はクイーン型です。それは変わりません。しかし、では私にとって一番面白い「推理」とは何でしょうか。もっと言えば、私は「推理小説」が好きなのでしょうか、それとも「推理」その物が好きなのでしょうか。 一旦はアンフェアだと断じたにも係らず、「9マイルは遠すぎる」には何か強く感じる物がありました。そしてもう一度、今度は私にとっての「本格ミステリ」という既成概念を捨てて読んでみました。 …鉄槌を喰らったようなショックを覚えました。これは、確かに近視眼的には「御都合主義の、出来の悪い本格」に感じられるかもしれない…しかし、そうではない。このミステリは、「推理とは何か」を描いた物だ!犯人が誰なのか、真相がどうなのか、それを読者に問うているのではなく、「推理ってのは、こうやって行うんだよ」という主人公の姿を描いている「ガイドブック」ではないか!…特に感銘を受けたのは、主人公が(舞台となった当地に精通していれば)誰でも常識的に知っているデータ群の中から、推理の材料を拾い出す場面です。判断材料は最初から目の前に転がっています。誰の目にも映っているはずです。しかし、それを能動的に拾う人と、こんな物なんて何の意味もないと捨てる人とがいます。そして結果的に、両者の間には天と地ほどの大きな格差が生まれます。もちろん前者は推理に長けた人、後者はそうでない人です。 何を見るのか、何を拾うのか、推理の核心はここにこそあり、データが十分に揃ってしまえば、そこから先は誰がやっても大した差が生じないのではないか。一方、推理小説では、これを描くのは構造的に難しく、「現実社会で行う推理」とはまた少し違った「小説の中で楽しむ推理」として特化していった…という事ではないでしょうか。 こうして私は結果的に、小説の中で「犯人当て」を楽しむなら、やはりクイーン型が望ましいだろう…しかし、もし小説以外の形式ならば、別の可能性も生じるかもしれない…と考えるようになりました。 そして、さらに数年後、日本では「新本格」と呼ばれる作品群が次々に発表されました。私もこれには強い興味を持ち、ほとんどの作品を読破しました。 その中で一つ、私に強烈なインスピレーションを与えてくれた物がありました。それが「頼子のために」です。 私は序盤で「○○って、具体的にどういう姿形をしているのかな?詳しい記述がないな。自分が作中の探偵なら、真っ先にそれを調べるけどなあ…」と思いました。 読了すると、やはり○○が重要な鍵となっていました。そして同時に思ったのです。○○が実際に読者の目に見えないのは、当たり前ですがそれが「あくまで小説の作中に登場する物」であるからですね。ならば、もしこれがテレビドラマだったらどうでしょうか。○○は、何度となく画面に映る(映さざるを得ない)のではないでしょうか。多分、クローズアップにはならない(出来ない)でしょう。長時間映り続ける事もないでしょう。 では、これが現実に起こった事件だった場合はどうでしょうか。そして偶然、自分がそこに巻き込まれてしまったら?○○は現存しますから、手に取って見る事が出来るでしょう。何時間でも、じっくりと観察出来ます。そして人によって、それを徹底的に検証するか、あるいは無視して他の捜査を進めるかという差が生じます。これは、捜査序盤から真相へとほぼ直行出来るかどうかの、極めて大きな差となります。推理小説とは全く違った形のアプローチです。新しい可能性を感じます。 ならば、ゲームだったら?既存の推理ゲームの大半は、推理小説をそのまま映像化し、シナリオを分岐させた物だと思います。もちろん、それは間違っていませんし、とても面白いと思います。しかし、ゲームならもっと他のやり方も考えられるのではないでしょうか。 これが、私がたんていくんの原案を思いつく直接のきっかけとなったのです。その後数年である程度考えをまとめ、かねてより温めていたいくつかの「非クイーン型」のアイデアを組み合わせ、「分岐せず、なのに一本道でもない」という、摩訶不思議なシナリオ形式のゲーム案が誕生したという訳です。もっとも、この時点ではまさか、本当に自分達の手でゲーム製作を行うとは思いもしませんでした。 この後もさらに、「たんていくんが現在の形になるまでの紆余曲折」が続いたのですが、この辺りのエピソードは別の機会にお話ししましょう。 ほな。 |
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